■織田軍

 「長篠設楽原の戦い」に参戦した主な武将たちをこの合戦における活躍ぶりを中心に紹介します。
武田軍■


▼織田信長
▼羽柴秀吉
▼織田信忠
▼北畠信雄
▼佐久間信盛
▼前田利家
▼佐々成政
▼滝川助義

武田勝頼▼
武田信玄▼
武田信廉▼
小山田信茂▼
穴山梅雪(信君)▼
山県昌景▼
内藤昌豊▼
土屋昌次▼
真田信綱・昌輝▼
馬場信房▼
甘利信康▼
小幡信貞▼
原  昌胤▼
山本信供▼
笠井肥後守▼
■徳川軍

▼徳川家康
▼奥平貞昌(信昌)
▼鳥居強右衛門
▼大久保忠世・忠佐
▼松平信康
▼酒井忠次
▼松平伊忠
▼本多忠勝










 
織田信長
(1534〜1582)
 当時、最大の反勢力であった武田信玄の存在には、さすがの信長も正面切っての敵対を避けていた。 まずは自分の妹の娘を信玄の養女として、勝頼の正室に送っているが、やがて病死している。すると今度は信玄の娘松姫と嫡子信忠とを婚約させるなどし、血縁関係を保ち続けていた。
 足利義昭の檄で結集した反信長勢力に信玄が加わったことでついに信長包囲網が完成し、上洛以来最大のピンチを迎えることとなった。三方ヶ原の戦いでは、同盟を組んでいた家康が大敗を喫し、いよいよ決戦のときを迎えるはずであったが、まさにその直前で信玄の病死に助けられることとなった。しかし、最強騎馬軍団は無傷のまま残されており、決して安堵することもできなかった。
 この度の勝頼軍による三河侵攻の報を聞いた信長は、あたかも悠然としたポーズをとっていた。 家康の使いが援軍を要請してきても承諾を渋って見せていたが、実はかなり早い段階で対武田戦に向けて鉄砲衆と鉄砲および弾薬を準備させており、対応はけっして遅くなかったのである。 しかもその戦術においてもかなり細部にわたり、充分すぎるほどの計算がされており、それらは裏返せばいかに恐れをなしていたかの証拠であった。
 陽動作戦においても、武田軍におびえて対戦したくないらしいという噂を撒き散らすことなど巧みな仕掛けを使い、設楽原における周到な防戦の構えに対し勝頼を誘き出し、この合戦において壊滅的な打撃を与えることに成功した。
 後の天正10年3月、武田氏を天目山にて滅亡に追いやるが、自らもそのわずか2ヶ月半後に、本能寺の変によって命を落とすことになる。
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徳川家康
(1542〜1616)
 家康は今川氏の滅亡からずっと武田領地と境を接していたため、常に領地争いが絶えず、そのため信長と同盟を結んで三河を平定していた。
 三方ケ原の戦いにおいて、浜松城内にいた家康は自分の目の前を横切った信玄の誘いに乗せられ惨敗し、命からがら城に逃げ帰り助かったという話は有名である。生涯で最大の失敗であった。
 後を継いだ勝頼も遠江や三河出兵に際していくども挑発してきたが、乗せられることはなかった。 三方ケ原の教訓は充分にを生かされていたのである。
 しかし、対武田軍のための最大の防御基地、高天神城を勝頼に奪われたことは大きな痛手であった。そのため、この長篠城をそれにかわる拠点として早急に整備する必要があった。そこでその城主に武田を裏切り、後へは引けない奥平信昌を起用したのも、城を死守してくれることを期待してのことであった。
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羽柴秀吉
(1537〜1598)
 いわずと知れた信長の事業を引き継ぎ、天下を平定した人物。のちの豊臣秀吉。
 信長に仕え、これまで数多く戦功をたてて重用されてきた秀吉であったが、この合戦においては「滝川隊が押され気味になったのを見た信長の命令により、横合から攻撃を加えた」ことぐらいで取り立てた手柄もなかったようである。
 この合戦では信長の戦術が細部にまで施されており、さずがの秀吉も活躍する場が与えられなかったらしい。
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奥平貞昌
(後に信昌)
(1555〜1615)
 山家三方衆と呼ばれた作手奥平氏はもとは今川氏の傘下にあったが、桶狭間の戦いで今川義元が敗れると徳川氏に属することとなった。
 その後、武田軍が侵入した折軍門に下り、貞昌の弟当時わずか十歳の仙丸と一族の娘などを人質に送った。信玄西征のさいは、その尖兵として徳川軍と戦い、三方ケ原の戦いでは徳川軍を破って功績を上げたほどであった。
 ところが、天正元年(1573)野田城攻囲中、武田信玄が倒れて、武田軍が甲斐へ引き揚げるや、徳川家康はいったん奪われた野田城を取り戻し、長篠城をも攻略した。それだけでなく信長の内諾を得たうえで、奥平家を懐柔させるために亀姫(築山御前長女)を貞能の嫡男貞昌に婚家させること、領地を安堵することなどを条件に交渉があり、ついに裏切って再び徳川につくことを決心した。 (このとき、どちらが滅んでも奥平家を存続させるため、祖父貞勝らは武田方に忠誠を示し、ぎりぎりの政策を行っていた。なお、貞勝はその後甲斐国に赴き、武田家が滅亡するまで従っている。)
 これに対して勝頼は3人の人質を見せしめのために、鳳来寺金剛堂の前に磔にして殺害した。
 そして、わずか二十歳の奥平貞昌は天正3年2月、引きに引けない玉砕覚悟の立場で五百余人の兵と二百挺の鉄砲を与えられ、長篠城を死守することを命じられたのである。
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鳥居強右衛門
勝商

(?〜1575)
 奥平家の雑兵36歳。三河宝飯郡八幡村出身。
 あと4、5日の食糧を残すのみとなり陥落目前となった長篠城内では、奥平信昌が飢えて死ぬよりは門を開いて打って出て死のうという城兵を諌め、自分が腹を切って勝頼に詫びることで城兵を助けようと家臣に伝えた。
 そのとき、末座より進み出て密使を引き受けたのが、この鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)であった。
 5月14日の夜半、野牛門から抜け出した強右衛門は、寒狭川と大野川の合流点の渡合の岸から急流の中に身を躍らせた。張りめぐらされた鳴子の網を切りながら一里半ほど豊川を泳ぎくだり、広瀬に上陸した。15日明け方、雁峯山に登ったのち、城外脱出の成功を告げる狼煙をあげた。
 15日の夕刻、岡崎に着き、家康と作戦会議をしていた信長に、長篠城の危急を報告し、来援を求めたところ、翌16日の出陣を決定し、同行するように勧められる。しかし、吉報をいち早く伝えたいので、それを断り、長篠城へ向かった。
 16日、雁峯山にて再び援軍の到来を知らせる合図の狼煙をあげた後、篠場野まで帰り敵の資材を担う人夫にまぎれて城に入る機会をうかがっていた。しかし、衣服が濡れていたのを怪しまれ、合言葉をかけたが合わないので遂に武田勢に捕らえることなった。詰問された強右衛門がありのままを白状したので、その忠勇ぶりを賞し「城内の兵に向かって援軍が来ないことになったから、速やかに降伏せよ」と伝えるならば、武田の家臣に加え、知行を与えると持ちかけられる。
 そのことを承服し、長篠城門の堀端まで連れられた強右衛門であったが、「3日のうちに織田・徳川の援軍が必ず来るから、それまで頑張られよ」と大声で叫んだため、一杯食わされた勝頼は憤慨し、城を正面にした篠場野で磔の刑に処した。
 強右衛門の命がけの復命報告によって、長篠城内の士気は一斉にふるい立ったことはもとより、その堂々たる誠忠ぶりには、敵も味方もみな感動したという。
 なかでも武田の武士で、のちに徳川に仕えた落合佐平次道久は感動のあまり目の前で見た磔姿を絵に写し取り、のちに旗差物にしている。
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松平信康
(1559〜1579)

 徳川家康の嫡男。
 当時17歳であったが、この戦いで剛勇無類さをいかんなく発揮し、敵将勝頼が「かの小冠者長生せば、必ず天下に旗を立つべし」と評したといわれている。
 また、信長も娘徳姫を家康と同盟を固めるために信康に嫁がせていたが、このときの戦いぶりを見てさぞ警戒心を抱いたと思われる。このことが4年後の悲劇につながったといわれている。
 武田との内通を理由とした信長の命に従った家康は、苦渋の決断により信康を二俣城に閉じ込め自害に追い込んだのであった。世に言う「築山事件」である。
 この出来事により家康と信長の関係はこれまでの盟友関係から服従関係に変わることとなった。

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酒井忠次
(1527〜1596)
 家康の家臣であり、吉田城主である酒井忠次はこの戦いで重要な役割を果たすことになる。
 5月20日、信長は、諸将を集めて評定を開いた。家康の家臣酒井忠次がはるか末座より進み出て進言するには、今夜密かに部隊を進め勝頼の陣の背後にある鳶ノ巣山を攻め落とせば、敵勢は退路を絶たれて窮地に追い込まれ、明日の勝利は間違いない、と言葉のかぎりを尽くし説明した。これに対し信長は大変立腹し、「小策であり大軍の用いる策ではない」と歴々の者たちを憚らぬ発言について叱責があり、忠次はやむなく退出せざるを得なかった。
  しかし、軍議終了後、改めて酒井を呼び寄せた信長は、先程の席上では敵の内通者を恐れ、わざと振舞ったのである、といい、前言を詫び「善策であり速やかに出発せよ」と命じた。
 この作戦(鳶ヶ巣山奇襲)がズバリ的中し、武田軍に心理的ダメージを与えるとともに、不利な全面対決へと誘導する大きな役割を果たすこととなった。
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松平伊忠
(?〜1575)
 家康の家臣。深溝城主。
 鳶ヶ巣山砦を攻めた松平伊忠は敗走する武田勢の後を追い、豊川を渡ってさらに追走した。ところが、残兵を率い、引き返してきた小山田昌行の部隊に囲まれ、奮戦の末ついに討死した。
 鳶ノ巣山へ向けて出発する前、松平伊忠は子の家忠に、自分はおそらく討死するから、お前は身をまっとうして家康に仕えよ、と言って、家人たちと別れの盃を交わして出発したと伝えられる。
 また、その家忠はのちの関ヶ原の戦いで鳥居元忠とともに伏見城を死守して自決することとなる。 
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織田信忠
(1557〜1582)
 信長の嫡男。
 信忠はこの後の武田討伐で総大将として出陣し、活躍している。また、本能寺の変のとき信長を救援しようとしたが果たせず、二条城で明智光秀に猛攻を受け、26歳の若さで自刃した。
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北畠信雄
(1558〜1630)
 信長の二男であった信雄はこの時、養子に出ており北畠を名乗っていた。
 本能寺の変後は織田姓に復し、清洲会議では信長継嗣となることを画策したが果たせなかった。
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佐久間信盛
(?〜1560)
 信長の家臣。
 織田信秀に仕え、信長が家督を相続するとき、これを支持し信任を得た。

数多くの合戦で戦功を立てたが、石山本願寺攻撃の不手際により信長より追放された。剃髪して高野山に入り、熊野で没した。
 この合戦では武田方と内通し、信長の諜略戦で大きな役割を果たしたといわれている。武田軍を設楽原におびきだすとともに、馬防柵前では信盛の裏切りを信じた武田軍を最後まで翻弄させ続けた。
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前田利家
(1538−1599)
 「加賀百万石」を実現した加賀藩の始祖。早くから信長に仕え、桶狭間、姉川、長篠の戦いなどで戦功をあげ、越前府中城主となりさらに能登一国を与えられ、七尾城主となった。信長の死後、賤ヶ岳の戦いでは一時柴田勝家方についたが、以後秀吉に臣事し知行も増大を続け、尾山(金沢)城主となった。秀吉の死の直前に五大老の一人となり遺児秀頼の後見にあたったが、慶長四年三月、徳川家康と石田三成の対立を憂慮しつつ大阪で死去した。
 この合戦では直臣の母衣衆のひとりとして信長から戦術をいいふめられ、最も要職であった鉄砲隊の指揮にあたった。特に武田軍の右翼からの壮絶な突撃に対し応戦し、信長考案の新戦法の威力を十分に発揮させたのは利家らが指揮するこの方面であった。敗走する武田軍への追撃戦においては、ただ一騎悠然と引き揚げていく敵将物頭弓削左衛門に戦いを挑んだが、太股を斬られ落馬、危うく首をとられるところであった。救援に駆けつけた家臣村井又兵衛長頼が代わって奮闘し、終いには双方が落馬、組み討ちになった末ようやく討ち果たしている。
 
佐々成政
(1539-1588)
 早くから信長に仕えた武将。越前朝倉攻めや一揆軍との戦いに功があり、北陸方面(上杉謙信)の備えとして越前府中を与えられた後、知行の加増を受け越中富山城主となった。信長の死後、織田信雄・徳川家康に呼応し秀吉方前田利家と戦ったが、秀吉軍十万余の大軍が侵攻してくると抵抗するすべもなく降伏することになった。九州征伐後、肥後一国の領主となったが、国人衆の統制鎮圧に不手際があったとし、摂津尼ヶ崎で切腹させられた。
 この合戦では信長直臣の母衣衆として武田右翼軍に備える鉄砲隊の指揮にあたり活躍した。さらに新戦術が功を奏し乱軍となった武田軍をみた成政は、信長の許しを得た後馬防柵から飛び出し、内藤隊に斬り込んでいる。
 
本多忠勝
(1548〜1610)
 家康の家臣。
 忠勝は、一尺二寸五分の穂先に一間半の柄をつけた「蜻蛉切(とんぼきり)」という名槍を軽々と振りまわし、初陣以来大小50余度の戦歴を持ちながらもかすり傷を受けたこともなかったといわれる豪将であった。また、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の首(からのかしら、から牛の尾を飾りにつけた兜)に本多平八」と世間からいいはやされるほどであった。

 この合戦では、家康本陣めがけて突進する山県昌景隊を迎え撃っている。弾丸の雨をものともせず進みくる騎馬武者を見つけ、「あれこそ山県なれ」といっせいに撃ちかけさせ、みごとに討ち果たしている。
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大久保忠世
(1532〜1594)
大久保忠佐
(1537〜1613)

 ともに家康の家臣。
 設楽原の決戦で織田軍に遅れをとってはならないといち早く合戦の火蓋を切ったのが、徳川譜代の臣大久保兄弟であった。柵を避けて迂回しようと突進してきた山県隊の前に立ちはだかり、押しつ押されつの攻防を繰り返し、その戦の駆け引きと鉄砲隊の指揮ぶりは見事なもので、大いに翻弄させている。
 その様子を見ていた信長は、前線で戦っている金の揚羽蝶の羽と石餅の差物の勇戦振りに目をとめていたがそれが敵か味方か判断できなかったため、家康の陣所に使者を遣わし問いただした。
 そしてそれが家康の家臣大久保忠世・忠佐だと知ると、「さても家康はよき者をもたれり。この者どもは良き膏薬(こうやく)のような奴、敵にべったりと付いて離れぬ」と賞賛するとともに家康を羨んだという。

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武田勝頼
(1546〜1582)
 信玄の二男。
 信玄の没後、その遺言により武田家を正式に嗣いだのは勝頼の子、信勝であった。
 後見役(副将軍)としてあとをついだ勝頼は父以上の猛将であったといわれ、しかもそのまわりには信玄のもと最強といわれた騎馬軍団とそれを指揮する老練な武将たちがほとんど無傷のまま残っていた。
 ちょうど一年前に父信玄でさえ攻略できなかった堅城高天神城の攻落を成功させたことが勝頼を今回の三河遠征に駆り立てるきっかけとなった。
 しかし、出兵数(1万5千)から判断すると信長との全面対決は考えておらず、長篠城包囲軍を解き、設楽原に誘き出されたことが悔やまれる結果となった。
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武田信玄
(1521〜1573)
 戦国武将の中でも類を見ない名将であり、政治家としてもその力量を十分に発揮した。
 信玄ほど思慮が深く、人材の起用のうまかった武将は他に例がない。人材の登用を積極的にすすめ、適材適所、それぞれの能力や適性に合った仕事を与えて、その力量を発揮させた。また、独断専行を避け、部下の意見をもよく聞いた上で確固たる決断し、その指導力を示した。
 また、その一方で和歌や詩文の才もあり、文武両道に秀でていた。
 越後の上杉謙信との数度にわたる川中島の合戦は有名であり、ついに上洛をめざし三方ヶ原では徳川家康を撃破したが信長との決戦直前、野田城(新城市)において病にたおれ、帰陣の途中伊那谷駒場にて没した。53歳であった。
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武田信廉
(?〜1582)
 この合戦では武田軍中央隊を指揮し最後まで奮闘したが、落ち延びている。
 信虎三男、信玄・信繁と同腹でありながら、二人の兄とは性格を異にし、芸術家(武人画家)としても知られる。
 信廉は容貌骨相が信玄に酷似していることから、影武者をつとめたともいわれ、後年、信玄が陣中で病没したとき、混乱を未然に防ぐため、゛病気の信玄"になりすまし、全軍が平然と甲府に引き上げることに成功した。
 武田滅亡のとき、織田軍に捕らえられ、府中相川で斬罪となった。
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小山田信茂
(1539〜1582)
 小山田昌茂は末代まで゛裏切り者"の汚名を着せられた悲劇的な武将である。
この戦いでは山県隊のあとを受けて奮闘したが、織田軍の鉄砲隊に銃弾を浴びてその戦力の大半を失っている。
 若いころから信玄の側近にあって、合戦の相談や進言をする談合七人衆の一人に加えられており、優れた文才の持ち主であったといわれる。勝頼滅亡の直前、郡内領の安泰をはかるべく落ち延びてくる勝頼らを大月・岩殿山城に迎えると偽って戦列を離脱、甲府・善光寺に陣をとる織田信忠に謁見したが、土壇場で主家を裏切った行為をなじられ、処刑された。
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穴山(信君)梅雪
(1541〜1582)
 この戦いで武田の敗北をみきわめた穴山梅雪(信君)は、勝頼より先に逃げ去ったといわれるが、一説には勝頼の退却を助ける任務を遂行するために先に陣をはらったともいわれている。
 信玄時代の合戦にはすべて従軍したという歴戦の勇者であるが、主として本陣守衛の任にあったためか、むしろ戦国期を代表する文化人との印象が強い。領主としての業績は優れたものを遺し、領民からは名君の名を得ている。
 勝頼滅亡の直前、武田の存続を図るべく徳川家康の陣に走り、裏切者の烙印を押される。天正十年(1582)六月、堺にあって本能寺の変に遭遇し、梅雪は陸路を選んで浜松へ向かったが帰国途中の宇治田原の山中で、土民(野盗)の手によって非業な最期をとげた。
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山県昌景
(?〜1575)
 武田信玄、勝頼と二代に仕えた家臣。
 敵を恐れぬ猛進の武将として知られる昌景の活躍の場は合戦だけにとどまらず、戦略、治安、外交、内政などあらゆる面でその能力を発揮した。
 山県は決戦の朝、再度勝頼に無謀な攻撃をやめるように進言したが、「幾つになっても命は惜しいものらしい」と皮肉られ、憤然として一番に突撃した。

 白糸威の具足に金の大鍬形を打った兜を着け、敵弾(本多鉄砲隊)を物ともせずに馬を進めたが、からだ中蜂の巣のように銃弾を浴びて、ついに両腕の自由を失ってしまったが采配を口にくわえて指揮を続けたという。鉄砲名手の大坂新助の一弾が胸板に命中。こらえ切れずに落馬し、采配を口にくわえたままの死であった。敵に渡さぬよう、家来の志村又右衛門がその首を持って帰ったという。
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内藤昌豊
(?〜1575)
 武田の副将格と目されたほどの器量人であり、その武略にはすぐれたものがあったといわれる。
 この戦いでは武田軍の中央隊長として、千五百の兵を率い、天王山に陣を構えていた。出ては柳田前激戦地において、六度戦い、織田・徳川両軍の第一・第二柵を破るなど激しく攻めたて、昌豊の兵二十余人が第三の柵を乗り越え押し込み、家康を大いに震え上がらせたといわれる。

 戦況不利となり勝頼本陣の旗が宮脇方面にのがれるのを見届けた昌豊は、これが最期と数少なくなった残兵とともに家康の本陣目掛けて突進した。榊原弓鉄隊により射かけられた矢により鎧に立つ矢は蓑の如しというほどの奮闘だったが、ついに一本の流れ矢に当たって落馬し、起き上がり槍を取って突かんとするところを討たれたという。
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土屋昌次
(1545〜1575)
 昌次は将来を大いに嘱望された若手武将で勝頼のよき相談相手であったといわれている。
 信玄が病死すると殉死を願い出たが、高坂弾正昌信に「いま死ぬことは簡単であるが、生きて勝頼のため働くが武士のつとめ」と押しとどめられた。
 この敵陣を眺め渡した昌次は「一命を捨てて地下の先君に報いる時が、ついにきた」と配下の騎馬隊をひきい、佐久間信盛の守る陣地に突進して行った。その目的は武田軍の攻撃を阻む馬防柵を倒すことで突破口をあけ、劣勢を挽回することにあった。敵の銃弾をものともせず、第一柵を倒し、第二柵に突破口をあけ、最後の第三柵によじ登り引き倒そうとしたところ、一発の銃弾が彼の胸を撃ち砕いた。「ただ今、君のため心おきなく討死して、高恩を地下に報いん」と呼ばわる昌次の大音声は、いつまでも人々の耳に残り、敵も味方も、その壮烈な最期をたたえて惜しまなかった。31歳の短い生涯であった。
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真田信綱
(1537〜1575)
真田昌輝
(?〜1575)

 父幸隆の後を継いだいわば武田生え抜きの武将であった信綱は次弟昌輝とともに働いたが、当主であったのはこの合戦までのわずか1年間であった。。
 真田兄弟の部隊は馬場隊に続き、柵の内に退いた敵の銃弾をかいくぐって突進し、第一柵を破り、さらに第二柵に取りかかる勢いであった。しかし、兄の信綱は集中銃火を浴びて壮烈な戦死をし、弟昌輝も傷を負って一旦退却した。
 その後戦況は武田軍に不利となっていき、勝頼の本隊もじりじりと後退し、やがて「大」の文字の旗指物も、はるかに遠のいて行った。それを見送った昌輝は敗走の途中馬場信春に会い、兄の信綱がまだ引き揚げてないことを聞いて再び戻り、追撃の織田・徳川軍勢の中へ突き進んだ。群がる敵にやむなく引き寄せながらよく戦い、兄同様あえなく銃弾を浴びて戦死している。

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馬場信春
(?〜1575)
 武田三代に仕えた信春は歴戦の猛者といわれ、戦歴40数年、参加した合戦は計り知れず、ただ一度のかすり傷さえ負わなかったといわれる。
 この合戦の前半では佐久間隊の占領していた丸山を強襲、たちまちこれを追い落とした。この頃はまだ武田軍が優勢であったが、信春は勝頼に退却を強く進言した。しかし、聞き入れられるはずもなく、その後も戦局全体を俯瞰できる丸山上に陣を構え、あえて戦闘に加わらず、戦況のなりゆきを見守っていた。

 そして、勝頼の脱出を見届けた信春は武田軍の殿軍を務め、橋詰に取って返し、追撃軍6人に槍で突かれ出沢猿橋付近で覚悟の討ち死を遂げた。
 このとき、小高い丘に登った信春は「われこそは、武田の臣馬場美濃守信春なるぞ。討ち取って手柄にせよ。」と高らかに呼び上げ、刀にも手をかけずに西方に向かって合掌し、敵には見向きもせずにいたという。
 その壮絶な戦いぶりは連合軍からも「その働き、比類なし」と称賛された。
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甘利信康
(〜)
 武田譜代の重臣。父虎泰、兄昌忠ともに名将として知られている。
 兄の死後、信康は新しい兵法も積極的に取り入れるなど、武田軍にあって鉄砲隊の隊長としてその任に就いていた。

 はじめは山県昌景とともに戦ったが、中央隊最期の戦闘に加わり、勇戦して敵の第一柵まで奪取しさらに第三の柵をも破る勢いであったが、天王山のふもとまでじりじりと押し戻され、弾丸がつきたため鉄砲を捨て抜刀し、切っても切っても襲い来る津波のような西軍に、傷つき力尽きて「この柵さえなければ…」と立ったまま無念の切腹をとげた。
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小幡信貞
(?〜1592)

 信貞は上州の朱武者として勇名を馳せたといわれ、その兵の動員力も武田軍最大であった。武田氏とはあくまで同盟的な立場での従属であり、その独立性は高かった。
 この戦いでもよろいも旗指物も、馬具も赤く染められた赤備えの小幡勢の騎馬五百騎は、
左翼二番隊としてよく奮闘し、激しい接近戦を演じた。
 武田滅亡後は信長に通じ、滝川一益の支配下に入り、本能寺の変の後は北条氏の支配下に入った。小田原の役では落城前に城を脱出して、家康に降っている。
 その後は領地を家康に明渡し、旧友真田昌幸を頼って信州塩田平に隠棲、同地にて没している。

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原 昌胤
(?〜1575)
 原昌胤は地理に明るく、戦場の陣取りの判断の的確さを賞されており、陣場奉行として本陣に控えて戦況を見つめ、作戦陣立てをする役割を担っていた。
 通常は直接戦闘に参加することのない立場であったが、この戦いでは中央隊に属し奮闘の末、殿をつとめ惜しくも敵の銃弾を浴びて倒れた。その最期は防御の竹束のそとへ自ら出て、わざと的になる覚悟の戦死であったという。
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山本信供
(1556〜1575)
 信供の父勘助は、武田ニ十四将のひとりで武田信玄の軍師ともいわれ信州川中島の戦いで討死した名将である。信供ははじめ長篠城を囲む城監視隊として、高坂昌澄らと共に戦っていたが、年若くして敢無く戦死を遂げた。
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滝川助義
 
笠井肥後守
(?〜1575)
 才ノ神から退却した勝頼が出沢の橋詰にさしかかった時、疲労のためか勝頼の馬が川を渡ろうとせず、動かなくなってしまった。敵軍が迫り来る状況のなか、見かねた家臣笠井肥後守満秀は急いでやってくると馬から飛び降り、これに乗るように勧めた。そのようなことをしたらその方が討死してしまうに違いない、と勝頼が述べると、笠井は、命(めい)は義によって軽く、命(いのち)は恩のために奉る、自分の倅を取り立ててほしい、と言って、自分の馬に勝頼を乗せ、追いたてるように川を渡らせた。
 そこへ駆けつけたのが滝川一益勢に加わっていた滝川源左衛門助義であった。われこそは武田四郎勝頼なりと名乗った笠井とそれを信じた滝川は1時間ほど激しくもみあい、互いに差し違えたまま動かなくなり、相討ちとなって果てたという。
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