山県昌景の碑
 武田軍左翼隊を指揮し、戦場を狭しと駆け巡った猛将山県昌景の墓碑が自らの陣地を置いた竹広火踊坂にある。大久保隊との激戦の後、弾正山家康本陣めがけて猛攻撃を仕掛けたが、全身に銃弾を浴びて力尽きついに倒れた。
 
原隼人佐昌胤の碑
 原昌胤は中央隊として最後まで奮闘したが、衆寡敵せず山形高地を死守中覚悟の戦死を遂げた。
 その碑は竹広信玄塚のすぐ南、畑の中に建てられている。
 
甘利郷左衛門尉信康の碑
 天王山から柳田前激戦地へ下った辻に甘利信康の墓碑がある。時すでに武田軍は総崩れとなり、最後の突撃もこの天王山までじりじりと押し戻され、甘利はこの辻あたりで命を断ったという。
 
内藤修理亮昌豊の碑
 内藤昌豊の墓碑は連吾川を見下ろす信玄台地の突き出た高台である天王山(内藤昌豊陣地跡)にある。
 途中引き返し覚悟の突撃をした昌豊は鎧に立つ矢は蓑のごとくなり八束穂宮脇原で最期を遂げた。