主戦場 設楽原

 主戦場となった設楽原は雁峰山から南流して豊川に注ぐ連吾川を挟む平地である。全体からいえば平地といえるが、南北に長い狭隘な窪地のような形状で、所々に丘陵の連なりや川などがあるほか、でこぼこだらけの難所である。
 設楽原という名前からはかなり広いように思われるが、連吾川が深い谷川となって豊川に合流するあたりではある程度の広がりが見られるものの、戦いの中心となる家康の本陣(弾正山)と山県昌景の陣地(信玄台地)との間はわずか300m程度にすぎない距離にあった。
 また、 川に沿う部分はの多くは湿地帯(湿田)でもあリ、しかも合戦当時は田植えを終えて間もなくのころで、一面の田には満々と水がたたえられていたはずである。しかも、合戦当日は陽暦の7月9日にあたり梅雨の終わりであり、前日には雨が降っていた。
 信長は三千挺の鉄砲を最も効果的に活用するために、強いて馬も人も疾走しにくいこの地を選んだうえに馬防柵をはりめぐらせて、武田軍の機動力を完璧なまでに封じこめることに成功した。

 
大宮前激戦地
 馬場信春による丸山占領に続いて、勢いに乗じた真田信綱・昌輝兄弟や土屋昌次らの諸隊が次々と繰り出され、激戦が行われた場所である。ここには連合軍から羽柴・丹羽隊が、武田軍から内藤隊が加わるなどし、さらに戦線は拡大していった。
 
竹広激戦地
 武田軍左翼隊が主に激戦を行った戦地(「八剣前激戦地」「勝楽寺前激戦地」など)を総称して「竹広前」と呼んでいる。ちょうど家康本陣前にあたり、山県昌景らによる猛攻が行われた場所である。
 
柳田前激戦地
 武田軍中央隊が主に激戦を行った戦地を総称して「柳田前」と呼んでいる。
 また、生き残った各隊が中央隊と合流し、最後の戦闘を行ったところでもある。柵前に溢れ出した連合軍を相手に、天王山のふもとにあたるこの柳田の辻までじりじりと押し戻された甘利信康もその奮闘もむなしく自らの命を断った。