八剣表激戦地
 ここは家康本陣のすぐ南に位置し、内藤隊が本多隊、さらには榊原隊、大須賀隊に対し奮闘した場所として知られている。三の柵が破られたのは、記録上ここだけである。内藤隊配下の将士20余人が躍り込んだといわれており、家康も一時は死を覚悟し、長男信康を引き揚げさせるように説得したとの話も残っている。
 
勝楽寺前激戦地
 設楽原の最南端に位置する広々としたこの田園地帯が、武田軍の山県隊と徳川軍の大久保兄弟が激突した場所である。この辺りは馬防柵が設置されてないことから、山県隊はそこを突こうとねらったが、これを迎え撃ったのは連吾川を挟んで対陣した大久保隊であった。ところが、上流のゆるやかな連吾川と違い、両岸が切り立った崖となり、山県隊の進撃を自然の要害が大きく立ち塞がった。
 後方に見える林のなかを連吾川が流れ、その向こうに大久保兄弟陣地がしかれていた。
 
馬 防 柵
 設楽原に布陣した連合軍は連吾川の西に陣を敷き、平地部分の川沿い南北2Kmにわたって馬防柵を構築させた。
信長はあらかじめ岐阜を出発する際、足軽雑兵に至るまで、みな柵木と縄を携行させた。
 その柵木と周辺の雑木を合わせ、設楽原中央を流れる連吾川から10mは沼地のため、その西側に作られた田圃の畦に二重三重に柵の縦杭を打ち込んだ。また、付近の農家を買い取って、戸・障子・畳・柱などを使い、柵の出撃用の木戸口を設け、また柵の下部に弓矢を防ぐ畳を置くなどして、あたかも城壁を設けたような陣営を作り上げた。
 さらに各陣地前には空濠を掘り、土塁を築いて補強してあった
 
連 吾 川
 雁峰山から豊川へ向かう信玄台地と同じくその西の丘陵である弾正丘陵、その二つの間を連吾川(小川)が流れている。
 現在では上流は二本の流れに変わっており、須長から流れてくる本流をせき止めて灌漑用水として開発された人工の川が現在の新川(東側のやや高いところ)で、それ以前からあった天然の川(西側の低地)が古川である。かなり低湿地を流れていたため、川に沿った多くの部分は湿田であったと思われる。
 上流(馬防柵を構えた地帯)は田園地帯のゆるやかな流れなのに、下流の方は水量はさほどではないが曲がりくねった深い断崖の間を行く急流となっている。