丸山 (先佐久間信盛 後馬場信房陣地
 織田徳川連合軍左翼陣地の柵前、さらに連吾川を渡った先に丸山と呼ばれる丘がある。ここは最初佐久間隊が守る陣地であったが、馬場隊は少数ながら攻撃し、ついに奪い取ることに成功する。
 
橋詰殿戦場
 豊川沿いの左岸であるこの地が対岸(右岸)へと無事に渡り切った勝頼を見届けた後、馬場信房や笠井肥後守満秀などの家臣たちが最後の殿(しんがり)戦を繰り広げた場所である。
 
長 篠 城 跡
 大野川(宇連川)と寒狭川との合流点(渡合)の断崖上にこの城塞は築かれていた。したがって、城の東南は大野川に、西南は寒狭川にそれぞれ洗われ、この方面は断崖になっている。城郭は小さく、櫓がひとつあるだけのきわめて粗末な造りの小城ではあったが、長篠城がいかに難攻不落な要害であるかはこの牛渕橋からの眺めからよくわかる。
 戦いの翌年には早くも廃城となり、むなしく草の生い茂るにまかされた。その主な建造物は解体運搬して新城城構築に再利用された。
 
鳶 ヶ 巣 山

 長篠城の東方は、大野川の谷をはさんで起伏に富んだ山地が迫っている。中に突兀としてそびえるのが鳶ノ巣山である。
 武田信実が本陣を構えたこの砦は、空掘、土塁を伴った本格的な防御工事がなされていた。
 21日未明には酒井忠次軍による奇襲が行われ、守将信実らの力戦も及ばず、他の支塁の守兵ともども潰走することになる。立ち上る噴煙が長篠城兵および設楽原の連合軍を随分力づけたことと思われる。