【合戦概要】
 天正三年四月五日、武田勝頼は一万五千の軍勢を率いて甲府を出馬し、兵わずかに五百人の奥平貞昌が守る長篠城を包囲した。武田軍の猛烈な攻撃により落城を目前にし、救援の使者鳥居強右衛門は強固な包囲網を破り、岡崎に走り使命を果たした後、城に戻ろうとして捕らえられ磔になった。

  これに対し織田・徳川連合軍は、三万八千の大軍を設楽原へ繰り出し、馬防柵を拵らえ、専ら防戦の構えを見せたため、武田軍は長篠城包囲軍三千の兵を残し、主力は寒狭川を渡り設楽原へ進攻した。

  設楽原は連吾川に沿った帯状の湿地があり、梅雨で一層ぬかるみとなっていた。この地を挟み東に武田軍、西に連合軍が対峙した。武田軍は天下に誇る伝統の騎馬軍団、連合軍は自慢の鉄砲三千挺を最前線に配備し両軍は開戦の態勢を整えた。時まさに天正三年(西暦一五七五年)五月二十一日(太陽暦七月九日)であった。

 朝霧立ち込める午前六時頃、鳶ケ巣山奇襲を合図に静寂を破る武田軍の鬨の声と、迎え撃つ連合軍の轟然たる銃声で戦端がきられた。武田軍は先ず馬防柵の突破口を探り、左翼隊は勝楽寺前で徳川軍に、右翼隊は丸山砦で織田軍に突撃した。ついで中央隊が加わり攻防が繰り返される中、八剣前では遂に柵を突破した。しかし、果敢に攻撃して緒戦優位を保った武田軍も、間断なく飛び来る銃弾で、数々の名将と兵馬を失い、八時間に及ぶ交戦の末遂に敗れ去った。
  この戦いで、武田軍の戦死者は一万余人、連合軍の死傷者も六千人を下らなかったという。